はじめに
私たちは、福島県いわき市で視覚障害者へのサポート活動を行っているボランティアグループです。主な活動内容としては、自宅にこもりがちな方の外出の場の創設として年2回の「大人の遠足」、文化活動の支援として「音声ガイド付き映画上映会」、市民への啓発活動とサポーターの養成の場として「視覚障害者サポーター講座」、その他さまざまなレクリエーション活動を行っています。
私たちが震災のことを話せるようになるには時間がかかりました。地震と余震による恐怖が癒えるまで時間がかかりました。また行事参加者の中には津波で自宅を失った方、放射能汚染のため故郷を追われた方、避難所暮らしで生活困難を極めた方もいらっしゃいます。ゆかりのメンバーの中にも自宅が津波で全壊した方もいます。
行事が再開できたのは、震災後3か月を経過してからでした。被災地支援ということで様々な団体から支援金などをいただきましたので、遠足のための費用とさせていただきました。皆、生活や余震、放射能汚染のことを忘れて楽しい時間を過ごすことができました。帰りのバスの中では津波被害、原発避難による避難生活を送る方が唄をうたってくれました。忘れられない思い出です。
そんな中、あの時の大変さを記録に残してみようと視覚障害を持つメンバーから声が上がりました。みなさんの声からあの時の様子が伝わるでしょうか。地域の支えあいの中で生き延びた様子と共に、あの混乱の中で視覚障害者、いえ障害だけでなく誰かの支えが必要な人が取り残されてしまった現実を知ることもできます。
わずかな人数の聞き取り調査ですが、今後も起こりうるであろう災害に備えて、また震災時に視覚障害者が置かれた状況を知ることに私たちのヒアリングが少しでもお役に立てれば幸いです。
尚、この調査を実施するにあたっては、日本ユニシスグループ 社会貢献クラブ「ユニハート」様、ならびに日本ユニシス株式会社様からのご寄付を活用させていただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
聞き取り調査の概要
人数 | 24名(男性 8名、女性 16名) |
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年齢 | 36歳〜87歳 |
身体障害者手帳等級 | 1級:14名、2級:9名、5級:1名 |
災害時要援護者登録 | 全員未登録 |
住居形態 | 一戸建:20名、アパート:2名、公営住宅:2名 |
同居の有無 | 独居:8名、同居者あり:16名 |
職業の有無 | あり:4名、なし:20名 |
震災時利用できた情報機器 | 携帯電話:12名、固定電話:4名、PC:1名、テレビ:10名、ラジオ:15名 |
聞き取り項目
- 震災時の状況
- 被害の状況
- 断水時の対応
- 避難方法
- 震災後困ったこと
- 放射能汚染についての情報入手について
- 震災後支援があった機関や団体
- 震災時役に立ったことなどなんでも
聞き取り内容
1. 63歳 女性 1級
震災時にはヘルパーと歯科医院にいました。自宅に戻ると室内の家具類が全て倒れ、散乱していました。
その後の対策としては、家具の転倒防止の補強、高い所にあった物を下におろすなど備えました。
地震後困ったことは、断水とガスが停止してとても困りました。
地震から6日経過して、親類の住む富士市に避難をしました。
放射能汚染については公共放送より情報を得ました。
震災後県盲人協会から安否確認がありました。
食料品の備蓄はとても役に立ちました。1年後にアンケートが来て、音声血圧計、音声体温計を支援物資として盲人協会から受け取りました。
2. 62歳 女性 2級
地震の時には一人で自宅にいました。地震による被害は、玄関の扉が動きにくくなった、食器類が壊れたことです。
自宅は公立病院の近くにあるので、ライフラインの復旧が早く、困ることはなかったです。困ったことは、ガスが止まってしまい、お風呂に入れないことはとても困りました。
地震後5日後に家族で自家用車で群馬県に避難しました。
暖房器具の設備がなかったのでとても苦労しました。
3. 56歳 女性 1級
震災時には夫と二人で自宅にいました。家の中の被害は茶箪笥が落ちて扉が割れました。
地震で困ったことは、水が出なかったことで、自転車を引いて遠くまで給水に出かけました。食料品も店が閉まっていて、遠くまで買い物にでかけなければなりませんでした。
避難するように誘われましたが、ペットを飼っているので避難はしませんでした。
4. 68歳 女性 1級
自宅に夫と二人でいるときに地震にあいました。食器が多量に落下して割れました。食器戸棚の扉が開かないように防御しました。
地震翌日に娘の職場の手配で新潟に4〜5日間避難生活を送りました。
避難中、困ったことは特にありませんでした。
震災後、市役所から安否確認がありました。
断水していても、ソーラーを利用しているので水には困らず、近所の人に分けてあげました。
5. 79歳 女性 1級
夫と二人暮らし、自宅等に大きな被害はありませんでしたが、断水には困りました。
見えないので慣れない場所には行きたくなかったので、避難はしませんでした。
6. 66歳 女性 1級
自宅に一人でいるときに震災が起きました。茶箪笥の中のものが全部壊れました。窓ガラスに隙間ができたので、テープを張ってしのぎました。
ガソリンもなく、近くのスーパーも閉じたままだったので、食料品がありませんでした。断水にも困りました。
まったく見えないので、知らない場所に行くことがとても不安だったので、避難はしませんでした。
放射能汚染については隣組の人が放射線量を測定して教えてくれました。
7. 69歳 女性 1級
全盲の夫と二人で自宅にいた時に地震が起きました。
断水は2〜3日間のみでしたが、ガスが止まって困りました。
当日娘が迎えに来てくれて娘の車で2日間娘宅で避難をしました。
8. 69歳 女性 1級
全盲の夫と自宅にいました。揺れた直後は、庭の梅の木の下へ避難しました。自宅は半壊、風呂と屋根が大きく損傷しました。家具類は、半年前に固定強化していたので、倒れたものはありませんでした。
断水、買い物ができなくて困りました。
見えないので、慣れないところには行きたくなかったので、避難はしませんでした。
支援は、震災後役所から安否確認があったのみ。
9. 79歳 女性 1級
自宅で一人でいるときに震災にあいました。家の中は、仏壇の中や食器が落ちて割れました。
避難したくありませんでしたた、近所の人が迎えに来て外に避難しました。
困ったことは、断水と、病院が閉じてしまったので、血圧の薬がなくて困りました。
避難を勧められましたが、知らないところに行くことは不安だったので、避難はしませんでした。
震災後、ケアマネが心配して訪問してくれました。
10. 56歳 男性 2級
特記事項特になし
11. 63歳 女性 1級
震災時には一人で自宅にいました。観音開きの棚から色々落ちてきて割れてしまいました。
普段から何も置かない部屋を作っておいたので、安全だと思いそこに移動しました。下駄箱が倒れて玄関を塞いでしまったので、外に出られませんでした。
向いの人に声をかけて、少しおさまってから堤防に出たら、近所の人が集まっていました。避難は、団地の人が車に乗せてくれて中学校の避難所に行きました。そこでは毛布、パンが支給されました。しばらくして、息子が避難所に迎えに来てくれました。
あらかじめ避難場所はお互いに確認していました。避難先は息子宅だったので、あまり困りませんでした。
地震後は固定電話も携帯もつながりませんでした。店が開き始めた2週間後に自宅に戻りました。
放射能汚染についての情報は、テレビ、ラジオから得ていました。
行政からの支援は何もありませんでした。
震災時にガスが止まっていたので、日常生活用具で支給されたIHヒーターは助かりました。
普段から薬の場所はしっかり決めてあったし、大切なものはリュックに詰めている習慣だったのですぐに避難ができました。
夫が亡くなってから、近所の人と仲良くしていたことがとても助かりました。
12. 80歳 男性 2級
自宅に一人でいましたが、すぐに妻が戻ってきてくれました。自宅も大きな被害はありませんでした。
地震翌日、薬のみ取りに来て、バスで空港〜東京の子どもの家に避難をしました。
水を事前に用意しておけばよかったと思います。
放射能汚染の情報はわからず、帽子もかぶらず井戸水を汲みに行ったことがとてもくやしいです。
13. 69歳 女性 2級
震災時には夫と娘と海岸近くの喫茶店にいました。本来なら、その後港の市場に行く予定でした。行っていたら津波にあっていたでしょう。車が大渋滞する中、自宅に戻りました。
水道は1か月止まりました。
水素爆発後、群馬の親せき宅に避難をしました。ガソリンがなく途中で並んだりして、12時間かかってたどり着きました。
断水が解除されたので自宅に戻りました。
停電時には、通販で買った充電式で3か月間使えるデスクライトがとても役立ちました。
震災後、行政からの支援は特にありません。
14. 73歳 女性 5級
自宅は海近く、震災時はすぐに近所の人と高台の高校に避難をしました。
避難所では一日おにぎり1個でしのぎました。
携帯電話はつながらず、息子たちと連絡がとれませんでした。自宅は津波で全壊して、衣類もすべてを失いました。
震災後横浜に避難していましたが、ようやく市営住宅が確保できたのでいわきに戻ってこれました。
引っ越し先は不便で知り合いもいないためとても心細いです。
15. 78歳 女性 2級
地震時は病院に入院中でした。
16. 57歳 男性 1級
図書館で勤務している時に震災にあいました。拡大読書器が落ちないように必死で押さえました。本棚がくずれたが、けがはありませんでした。他の人は非常階段で避難しましたが、状況がわからず20〜30分デスクにいて、自分一人だけ取り残されました。
点呼した際にいないことに気づいてもらえ、迎えに来てくれました。オープンスペースだったので物が散乱して普段とは違う状況で、まったく動けませんでした。
混乱の中、上着も取り出せず、屋外に出たらとても寒かったです。公務員だったので、16:30頃帰宅可能となり、タクシーは長蛇の列、タクシー本社に行き自宅まで戻りましたが、電話が通じなかったので家族と行き違いになってしまいました。
ポケットラジオをいつも持ち歩いていたので、とても役にたちました。
自宅は半壊、水道は止まりましたが井戸水が出たのでしのいでいました。
避難はせずにずっと自宅にいました。屋内避難となっても30K圏外なので大丈夫だと思って、両親と3人でずっと自宅にいました。
情報はNHKラジオ第1で得ていました。
1年後に盲人福祉委員会から葉書がきて、返送、腕時計、白杖、置き時計を受け取りました。
これからの教訓として、杖は必ず手元においておくこと、自分はいつも同じ場所、デスクのそばに立てかけていました。
上着がなく外に出てとても寒かった時に、あたたかいコーヒーを誰かがくれてとてもうれしかったです。
勤務先が公共施設だったので、毛布の備蓄があって助かりました。
17. 87歳 女性 2級
自宅は海沿いにあります。自宅でお嫁さんといました。地震で散乱したこけしにつまづいて転びましたが、テレビで大津波警報が出たので、計5人で高台の中学校に避難しました。
日頃から家族で避難訓練をしており、他の人が逃げなくても地震が来たらかならず避難所に向かっていたので家族ともすぐに会えました。
自宅には1時間後に津波が押し寄せ、地域では数十名が亡くなりました。
中学校の避難所で2日過ごしましたが、原発から30K圏内のため、バスで避難することになりましたが、バスがなかなか来なくて、その間皆外にでていて、結果被ばくすることになってしまいました。
バスが来なかったので、自家用車で高校に避難しました。そこでは2人で毛布1枚しかなく、とても寒く眠れませんでした。高校には5月14日まで避難していました。
親せきとも連絡がとれませんでしたが、NHKニュースに映った姿を見て、茨城の親せきが調べて避難所に迎えに来てくれました。
入浴や着替えは2週間できませんでしたが、市内の断水していない家庭が送迎付きで入浴をさせてくれました。
避難している間、なんといってもトイレが大変でした。体育館には200人近くが避難していましたが、同じ部落の人がほとんどだったので仲良く過ごせました。
1日食パン1枚だったり、おにぎり1個だったので、いつもおなかがすいていました。体育館は満員で身動きがとれませんでした。
放射能汚染については、避難所のテレビで情報を得ていました。避難所に入ってからは放射能検査も行われました。
緑内障の点眼薬を持ち出せずに見えにくくなっていたところに、眼科クリニック院長が避難所を訪れて処方してくれました。おかげで失明しないで現在まで来られたと感謝しています。
震災後、アメリカのNPOから支援金を受け取りました。
雇用促進住宅に一時入居しましたが、風呂場が狭く古かったので、市内に中古住宅を購入しました。
以前は知り合いばかりで慣れた土地だったので歩けましたが、今はデイサービスに行くくらいで近所を歩けません。
我が家では、津波警報でなく注意報でも必ず避難していたので、今回も避難は当たり前でした。避難用に持ち出しバッグをまとめておくといざというときには良いと思います。
18. 77歳 男性 2級
震災時は妻と自宅にいました。今までにないほど揺れて瀬戸物が落ちて割れました。自宅は海岸前すぐ近くで川も流れています。
隣の家の瓦が落ちていたので妻が拾う手伝いをしていましたが、隣のガソリンスタンドの息子が「津波が来るから逃げろ」と呼びかけていたので、地域の人たちは裏山に上り始めていました。
妻がもたもたしていたので催促して海のほうを見たら、黒い波が押し寄せていました。急いで家の中に逃げましたが、波が入ってきて家の中2M位まで水が入ってきたので、柱につかまり妻の手をつかんで立ち泳ぎしました。
冷蔵庫、たたみのすべて浮き上がりました。知人宅で着替えさせてもらいましたが、また津波が来るというので高台のゴルフ場に避難しました。
人がいっぱいいて暗くて中に入れなかったので、知人の車で暖をとりました。その後、内陸部にある息子宅に避難しましたが、自分たちを迎えに来た娘が行方不明だと聞きました。
娘は自分たちを迎えに海岸沿いの自宅にわざわざ向かったために、津波にあい流されましたが、車のハッチバックの割れたガラスから逃げることができて九死に一生を得ました。
防災無線は地震で倒壊してまったく聞こえなかったし、携帯電話も水浸しになって使えませんでした。
自宅は全壊して基礎しか残っていないため現在も息子宅に間借り中。自宅地域は区画整理のため、もう再建することはできません。
地区で集合住宅を建てる予定ですが、まだ具体的に決まっていません。地域の人は皆散り散りになってしまいました。
放射能汚染についてはまったく情報がなく、それどころではなかったというのが現実。
畑で野菜を作ってもだれももらってくれないので、自分で食べるだけになってしまいました。
震災後行政からの支援は何もなく、アメリカのNPOから支援金を受けました。
仮設住宅の人と異なり、支援物資も得られませんでした。
今回の地震では、昔からの知り合いが車に乗せてくれたり、慣れた場所だったので見えなくても何とか避難ができました。
財布なども流されましたが、縁の下からどろだらけで見つかりました。
今回の教訓から、海沿いで地震が来たらすぐに逃げてほしいです。親からも、いわきは遠浅だから津波来ないと聞いていました。娘は自分たちを探しに来て津波にあいました。津波てんでこで、他人のことは構わずともかく逃げることだと思います。
場所によってがれきが山積みになって道がふさがれていて逃げるにもとても苦労しました。
19. 68歳 女性 1級
地震の時は息子と二人で自宅にいました。外に出る介助をしてくれました。自宅は大規模半壊で住めなくなり、2週間ほど次男宅に避難をしました。
そこに嫁の親せき他10名が原発のため避難してきたので、水戸に避難しましたが受け入れた娘が体調不良となり、一時いわきに戻りましたが余震が続き、風が吹く度に家が揺れていつ自宅が壊れるかわかならかったので、いつでも逃げられるように靴を履いていました。
その後、四国の実家に避難をしました。1週間ほどいましたが、弟も体調不良となり、やむを得ずいわきに5月9日に戻りました。
6月に雇用促進住宅に入れることになりましたが、目が不自由で車がないのでバスの便が良い所を希望しました。
転居しましたが、息子やヘルパーさんが面倒を見てくれるのでそんなに不自由はありません。
放射能汚染については情報がなかったので、普通に外を歩き、給水にも並びました。
行政からは特に支援はなく、手紙がきたのみ。
ボランティア団体から水、コメの支援を受けました。
震災時には近所の人が車のラジオのボリュームを大きくしてみんなに聞こえるようにしてくれました。隣近所がとても仲が良かったので、知り合いが区長に連絡をして食物を差し入れてくれました。
水がなくて、食べること、トイレに困りました。食器を洗えなかったのでサランラップを皿にまいて使いました。こんなみじめな思いをしたのは初めて。
電池の買い置きは必要だと思いました。
20. 69歳 女性 2級
自宅は海から100メートル、地震の際は自宅にいましたが物が散乱しました。怖くて電信柱のところに立っていたら、親せきが心配して見に来てくれて「こんなところにいたら津波が来る」と手を引いて駅のほうに行きました。
その後、高台の中学校に避難しましたが、久ノ浜は津波と火事に襲われました。
避難所で一夜を明かしましたが、その後、原発から30キロ圏内ということで外に出されて寒い中バスを待ちました。向かったのは内郷にある小学校。そこでゴールデンウィークまで親せきの男性と二人で過ごしました。
体育館は人がぎっしりで、見えないため、人の荷物や布団を踏んでしまい怒鳴られたので、できるだけ動かず布団にくるまってじっとしていました。
着替えも入浴も2週間以上できなくてつらかったです。しばらくして自衛隊が入浴車を運んでくれましたが、男女別で介助してくれる人もいなかったので、眼科クリニックの浴室を利用させてもらったのでとても助かりました。
21. 67歳 男性 1級
地震時はアイメイト協会で訓練中で東京にいました。3月26日に訓練が修了しましたが、ライフラインが復旧していないと友人にきいたので、4月4日まで川越の実家にいました。
高速バスでいわきに戻ってきましたが、震災で歩道が凸凹、歩道が寸断されていたためアイメイトがその都度立ち止まり、自宅に戻るまで時間がかかりました。
自宅は友人が散乱したものを片づけてくれました。
友人からは震災時にいわきにいなくて運が良かったと言われました。居たら餓死していたかも・・・と。震災時にはみな自分のことで精一杯で、障害者のことまで気を配れないと思います。
22. 62歳 男性 1級
眼科受診の帰り道に、ヘルパーに自宅に送ってもらう途中に震災にあいました。ゆっくり走りながら自宅に戻りましたが、窓ははずれて扉も開いたままになって中は物が散乱していました。ヘルパーが30分くらいいてくれて片づけてくれました。
断水したため、トイレの水は杖を持って川まで汲みに行きました。介護事業所が2日後水を持ってきてくれましたが、その後は留守電対応となり全く連絡がとれなくなりました。
毎日ヘルパーに頼っていたので、食料品の備蓄はなくて、市に連絡してもまったくつながらず、水とバナナで1週間しのぎました。
とうとう耐え切れなくなって、眼科院長の携帯電話に連絡をしました。その後迎えに来てもらい、クリニックに2泊し、埼玉の国立リハビリテーション病院に送ってもらい、1週間「入院」することになりました。
4月4日にいわきに戻りましたが、介護事業所とは相変わらず連絡が取れなかったので、前の事業所のヘルパーに連絡をして、食料品を持ってきてもらいました。
水は給水車が来ていたようですが、そこまで歩いていくと車にはねられて死んでしまうような所。避難所の利用もお願いしましたが、混乱しているから自宅にいたほうが良いと言われました。
いわきに戻ってからは、盲導犬協会からの支援物資や、道ですれ違った避難者の人が避難所から食料を持ってきてくれました。
今思い出すと、国立リハビリテーション病院でもう一人のいわきからの避難者と過ごしたことがとても楽しい思い出。病院でよくしてもらい、仲間もいてとても心が強くなりました。
震災後、避難者が増えてアパートが足りなくなり、生活保護、猫を飼っているなど不利な点もあって立ち退きを迫られて困りました。
23. 66歳 男性 1級
震災時には自宅で妻と孫と3人でいました。自宅の被害はありませんでした。
消防車が回ってきて、外に出ないように広報していたので、これはやばいと思って郡山の娘と孫を拾って、水戸経由で東京の弟宅に避難をしました。
避難先では、いわきナンバー、障害者マークがついていることで、なんでも最優先で対応してもらいうれしかったです。
2週間後にいわきに戻りましたが、断水が続いていたので妻が水を調達しました。
震災後には以前盲導犬を利用していたこともあり、日本盲導犬協会のマネージャーが訪問してくれましたが、市が視覚障がい者の名簿を出さないと怒っていました。
8月にようやく市役所の福祉課の人が回ってきましたが遅いと思いました。自分は妻がいますが、一人暮らしの人、遠慮している人にはなかなか支援が届きません。
盲人協会も会員は50名しかいません、もっと各団体が連携して視覚障がい者が支援を受けられるように考えるべきだと思います。
24. 36歳 男性 2級
治療院の訪問移動中に地震が起きました。何かおかしいと車を止めてみたら大地震でした。
事業所は海岸に近い所でしたが、とりあえず事務所に戻り、自宅に歩いて戻りました。
自宅に戻ってからはインターネットで情報を得ていました。インターネットで聞くまでは、自分がいた四倉に津波がきていたとは知りませんでした。
停電はしませんでしたが断水となり、携帯電話もまったく通じなかったので、(道はまったくわかりませんでしたが杖で)歩いて三和の実家まで戻ろうと準備をしていたら父親が迎えに来てくれました。
その後はライフラインが復旧するまで実家で過ごしました。実家にはガソリンがなく買い出しができませんでしたが、周囲は農家ばかりなので差し入れてもらい食べ物には困りませんでした。
震災後、日本点字図書館や卒業した国立塩原センターから安否確認がありました。震災時電話は全くつながりませんでした。あの非常時には、どれだけ備えていても無理だと思います。